「兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。」(ローマ人への手紙10章1節)
前回、日本人の宗教観の根底にあるのは、「祖先礼拝」と学びました。
その祖先礼拝と密接に結びついているのが「先祖供養」です。
私たちの地上での人生は、誕生に始まり、死で終わります。
しかし、日本では人生儀礼が死後においても続きます。
弔いあげと呼ばれ、初七日から始まり、そして、三十三回忌、五十回忌で終わりを迎えます。
日本の民族宗教では、その段階で、個人としての一生が終わり、あとは仏さまと呼ばれたり、ご先祖様と呼ばれたりします。
そこには何の根拠もありませんが、ご先祖は、神々の仲間入りをすることになります。
これが日本人の人生観の大きな柱となります。
人はあの世に住んでいるご先祖たちと密接につながり、お互いに助け合う「相互扶助」の関係を持つことになります。
生きている人間は、亡くなった祖先を供養し、
亡くなった祖先は、供養してもらったお礼に、生きている者を守ってくれると考えています。
この「相互扶助」の関係が先祖崇拝、先祖供養となるのです。
先祖を敬う、懐かしむのは、どこの国の人でも持っている感情ですが、
日本の大きな特色は、懐かしさや敬いを通り越して、先祖が祝福や守りを与えてくれると信じる反面、
もし祖先供養を粗末にするとたたりがあると恐れます。
この先祖供養を、聖書の光に照らすと人は死ぬと「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」とあるように、
体は地に帰り、霊は神のもとに帰ります(伝道者12:7)。そこで、神の審判を待ちます。
ですから、仏壇や位牌に先祖の霊魂が住んでいることはありません。
また、先祖供養をしたからといって、仏や神になることもありません。
むしろ、死者を神格化して拝むことは偶像礼拝の罪になります。
先祖もまた創造主によって造られたものです。神によって造られた人間が創造主の座を犯してはなりません。
むしろ、聖書は生前の本人の責任において判決が行われると教えています。
死の時にすべてが決定します。死後の供養によって、また他の人々の行為が死者に及ぶということはありません。
愚かな私たちですが、愛なる神は、すべての人たちに、キリストによって救いに至る道を備えて下さいました。
「御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ」(ヨハネ3:16)。
愛する家族、親族、友人たちの死後の供養に時間を費やすのではなく、
生前に福音を語り、キリストの救いに導きましょう。(文責:木村 美紀子)