Q&Aよくある質問

Q&Aコーナーは、現在皆さんからの質問を受け付けています。
聖書やキリスト教に関する質問がある方は、グレース宣教会までメールをお送りください。

聖書の神とは、どんな方ですか?

1900ページに及ぶ聖書の中に記されている神様とは、一言で言えば、「創造主」です。聖書の第一声「初めに神が天と地を創造した」は、そのことを明確に表わしています。また換言すれば、「万物の存在の原因」です。
私たちに感動と安らぎと与える大自然、広大無辺の大宇宙、目を下に転じて、足元で忙しげに動くアリ、道端に黙々と生きる草花、そしてそれらを観察している私たち人間。これら全てをお造りになった方が聖書の神様です。
「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた」と、神様は自己紹介しておられます。
親がいなければ、子供は絶対に生まれてきません。父母がいたから、私がいるのです。それと同じく、創造主がいなかったら、月や星、草木、動物、人間も存在していないのです。自然は自然に出来たのではありません。創造主による被造物なのです。
人間はみな、コペルニクス的発想の転換をしなければなりません。「造り主」がいるから、「私」がいるのだと。この造り主なる神こそ、本物の神様です。創造主は永遠、無限、不変の神、全知、全能にして、唯一なる絶対者です。
今も全宇宙を支配しておられ、同時に、1人1人の人間に深い関心を抱いてくださっています。全宇宙を御手の中に支配しておられる創造主から見ると、私たち人間は、海辺の砂浜の砂の一粒に過ぎませんが、親が子供を愛する以上の愛で、私たちを愛してくださっています。
聖書の神は、愛の神です。その愛の表われが、神のひとり子、イエス・キリストの十字架です。創造主から離れ、背を向けて、迷い子のようにさ迷い、罪を犯し続けている私たち人間を憐れんで、神の御子は処女マリヤを通して一人の人間になってこの世に来てくださいました。その方の名前が、イエス・キリスト様です。そして私たちの全ての罪を背負って、十字架にかかり、身代わりに永遠の地獄の刑罰を受けて苦しみ死んでくださいました。神はあなたを命がけで愛してくださっているのです!

聖書は、どんな本ですか?

アメリカ第16代大統領リンカーンは「神が人間にたまわった、もっとも素晴らしい賜物は、聖書である。人間の幸福にとって望ましいものはすべて、聖書の中に含まれている」と語っています。
聖書は、古今東西を問わず、世界の永遠のベストセラーでもあります。毎年、多くの人が聖書を読み、聖書の中から新しい生命を、生きる希望を、喜びを見出しているのです。
なぜ、聖書が人間を全く新しく造り変えることができるのでしょうか。
聖書が、神の言葉だからです。「聖書は全て、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(第二テモテ3章16節)
聖書は、もっとも高い知性の持ち主にも、また単純な心の持ち主にも喜ばれます。子供たちも喜んで物語に聞き入り、同時に学者、教授たちの心を潤す糧です。あらゆる民族、文化、性に対して、聖書はもっとも必要な言葉を与えます。
このような文書は、ただ神のみが産み出せるものです。
聖書は、大きく2つに分けられ、前の部分は『旧約聖書』と呼ばれ、39巻から成り、後の部分は『新約聖書』、27巻から成っています。
旧約とは「古い契約」という意味です。それは、神がイスラエル民族と結ばれた契約で、「人間が神の律法を守ることによって救われる」というものです。しかし、人間には神の律法を完全に守ることは不可能です。そのとき人間は、自らがいかに罪深いものであるかを知らされるのです。また『旧約聖書』のテーマは、罪人を救うためのメシヤ(救い主)の到来の預言です。
新約とは「新しい契約」という意味です。古い契約(人間の行ない)では人間は救われませんが、神はご自身の犠牲による救いの道を備えられていました。それは「救い主イエス・キリストを信じるだけで救われる」という恵みで、神が全人類と結ばれる契約です。
つまり、旧約は、救い主を預言し、新約は、救い主がイエス・キリストであり、十字架の死と復活により、救いが完成した!ということを告げているのです。

祈りについて教えてください。

多くの人は、祈ることを忘れて、生活しています。祈ることは、素朴な人だけができることで、自分はできないと思っています。祈ることは、何か迷信的で、時代遅れではないかと考えています。
しかし、日常生活の大切な節目には、祈りがあります。結婚式や、葬式には、必ず祈りが捧げられます。経済的に困ったり、子供のことで苦しんだり、人間関係で気持ちの隔たりがあるときには、思わず心の中で祈っている自分を発見するものです。
私たちは、生活に祈りの習慣は無いかもしれませんが、生活のベースに祈りがあることを時々意識します。そういう意味で、「人間とは祈る存在である」ということができるでしょう。
ギリシャ語で、人間のことを「アンスロポス」と言いますが、それは、「上を向くもの」という意味です。上を、天を、神を見上げ、自分が自分1人で生きていけるのではなく、神に依存して生きていく存在であることを示しています。祈るということは、神に依存することです。
祈りの対象について、私たちはぼんやりとして、祈ることを忘れることがあります。聖書に「いつになったら、分かるのか。耳を植えつけられた方がお聞きにならないだろうか。目を造られた方がご覧にならないだろうか」とあります。この意味は、人格的なまことの神は、あなたの祈りを聞き、愛のまなざしであなたに目を留めていてくださる事実を明らかにしています。
どのようにしたら、この耳を植えられた方、目を造られた方、つまり、聖書に示された、まことの神に祈り、祈りの答えをいただく祝福された生活がスタートするのでしょうか。それは、自分の自己中心、わがままの罪が耳をふさぎ、目を閉じさせていることを認めることから始まります。そして、イエス・キリストの十字架が私の罪の刑罰の身代わりであることを信じるとき、神が答えてくださる祈りの言葉が唇に生まれてくるのです。

モーセの「十戒」とは何ですか?

  1. あなたは、わたしのほかに、何ものをも神としてはならない。
  2. あなたは、自分のために、刻んだ像を作ってはならない。
  3. あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
  4. 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
  5. あなたの父と母を敬え。
  6. あなたは、殺してはならない。
  7. あなたは、姦淫してはならない。
  8. あなたは、盗んではならない。
  9. あなたは、隣人について、偽証してはならない。
  10. あなたは、隣人の家をむさぼってはならない。
これが「十戒」の本文です。
「十戒」は、天地を創造された神様がイスラエルの民に、モーセを通してシナイ山で与えられた、十の戒めです。旧約聖書の出エジプト記20章と申命記5章に記されています。
しかし、この「十戒」は、当時のイスラエルの民だけのものではありません。あらゆる時代のあらゆる人に適用し得る人間生活の規範なのです。
最初の4つの戒めは、創造主なる神様と人間の関係についてです。残りの6つは人間同士の関係についてです。
「十戒」は、私たちの生活の全領域に対する、創造主なる神様の関心を示しています。神様は、家族関係、人間の生命への関心、性、財産、言葉、思いを支配する基準を定められたのです。私たちを創造された神様が、私たちがどう行動すべきなのかを示しておられるのが「十戒」なのです。
イエス・キリスト様は「十戒」の根本精神を、2つの教えに要約されました。
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」
「十戒」は、神様があなたに与えられたものです。残念ながら、多くの人々はこの十戒を破り、自らに滅びを招いています。あなたはいかがですか。
教会には、救いがあります。ぜひ、1度お越しください。

キリスト教の起源について教えてください。

世の多くの宗教の起源は、その開祖、もしくは教祖の布教開始の時期と深い関係があるようです。
しかし、キリスト教には、人間としての開祖も教祖もいません。キリスト教は、私たち人間を始めとする天地の万物を創造された、唯一のまことの神様を信じる宗教だからです。
聖書には「初めに神が天と地を創造した。・・・・・・・・・神はこのように、人をご自身のかたちに創造された」(創世記1章)と記されています。しかしながら、人間は、自分を造ってくださった神様を信じず、神様に背いてしまっているのです。これが、聖書の教える「罪」であり、この罪の結果については、「罪から来る報酬は、死です」(ローマ書6章23節)と教えられています。つまり、罪の結果、人はみな「死の状態」に置かれているのです。
あなたが今、不安と苦しみの多い日々を送り、そして、死後「永遠の滅び」に落とされるのは、罪の結果の「死の状態」におかれているからです。
しかし、神様は、このような「死の状態」にある私たち人間を、なおも愛してくださり、今から約2000年前、自ら人間となってこの世に来られ、人間の罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったのです。
そして、信ずる者が「死の状態」から救い出されることを保証するため、3日目に復活してくださったのです。これがイエス・キリスト様です。
もし、あなたがイエス・キリスト様を救い主と信じるならば、あなたの罪は全て赦され、「死の状態」から救い出され、「永遠の生命」が与えられると、聖書は約束しているのです。
その意味では、イエス・キリスト様が復活された日を、キリスト教の起源と見なすこともできます。しかし、大切なことは、いつキリスト教が始まったか、ではなく、いつあなたがイエス様を信じたか、なのです。キリスト教の起源―それは、私たちがイエス様を信じた日、とも言えます。

占いとは、どういうものなのですか?

最近は占いブームといえます。多くの若者達が、占いに興味を持ち、コンピュータまでが占いの道具として使われています。
しかし、占いがいかに悪であり、罪であるかを知っている人は少ないのです。
聖書は、占いについてどのように語っているのでしょうか。
第一に、占いは、神様が最も忌み嫌われることであると記されています。占いと類似行為であるものも同じです。申命記18章10~12節に「占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらの事を行う者はみな、主が忌み嫌われるからである」 たとえ軽い気持ちであったとしても、占うことは神様が最も忌み嫌われることです。神様が忌み嫌われる占いをする者に、当然神様の祝福はありません。
第二に、占いの背後には悪魔の働きがあります。悪魔は私たち人間に、神様以外の偶像を拝ませようといたします。エゼキエル8章15,16節に、神様が最も忌み嫌うべきものとして「東の太陽の偶像礼拝」が記されていますが、占いの立場から見ると、東の太陽こそ最も価値あるものだと言われています。それを拝ませようとする占いこそ、悪魔の働き以外の何ものでもありません。
第三に、占いは過去を土台としています。たとえば、生年月日もそうです。占いの土台になっているものは、過ぎ去ったことであり、既に滅んでしまったことなのです。その滅びを土台として、はたして真実の未来、確かな人生を築き得るでしょうか。それどころか、当然、滅びを招くのみです。
占いによる結果は、真の恵みを失い、偽りの繁栄に酔いしれ、そして空しく自らの滅びを刈り取るのです。聖書は、占いではなく、天と地を創造された真の神様を信じ、頼ることが、私たちの未来に希望と祝福を与えるのだと語っているのです。私たちも、神様が最も忌み嫌われる占いを捨てて、真の神様を信じて祝福をいただく者となりましょう。

キリスト教にはどうして多くの教派があるのですか?

初めて、教会へ行こうと思う人がまず困るのは、「どんな教会へ行ったらよいのか?」ということです。
なぜなら、同じキリスト教にも、色々な教派や教団があるからです。
キリスト教会は、言うまでも無く、イエス・キリストを救い主と信じる者たちの集まりであり、本来、1つのものです。
しかし、現実には、ローマ・カトリック教会もあれば、プロテスタント教会もあり、しかも、プロテスタント教会には、数え上げれば際限がないほど、多くの教派があります(ルーテル派、改革派、長老派、バプテスト、福音自由、ペンテコステ派、カリスマ派など)。
(また、言うまでも無く、エホバの証人、モルモン教、統一協会などの、異端は、含まれてはいません。それらは、キリストの十字架を否定し、根本的に異なる新興宗教です。) さて、これらの多くの教派が生まれた理由には、①聖書に示されている教理に対する理解や解釈の相違、②それぞれの教派や教団を生み出す母体となった民族や国家の民族性や国民性、あるいは文化の相違、さらに政治的事情 など、色々な要素があります。
したがって、「キリスト教における教派とは何か?」と問われたら、他の教派と区別してその教派が持っている特殊性である、というしか方法が無いでしょう。
もう少し分かりやすく説明すれば、われわれ人間も、世界中に多くの民族的区別があり、同じ民族の中にも、いくつかの国家があり、同じ国家の中にも、地方によってまた微妙な相違があるようなものです。
個人の場合でも、人それぞれに個性の相違があります。しかし、「なぜ個性の相違があるのか?」と質問されても、それはなかなか一言では答えられません。遺伝子による相違もあれば、民族的相違もあります。その他の種々雑多の相違が混ざり合って、個性の相違が生じた、というより他に方法は無いでしょう。
したがって、どの教派が良くて、どの教派が正しくて、どの教派が間違っている、と簡単に結論を出すわけにはいきません。しかし、それぞれの教派がそれぞれの独自の伝統を持ち、伝統を誇っていることは事実です。
したがって、まず「十字架のあるキリスト教会」であることが大前提として、それらの教派の特徴を正しく理解し、自分に最も適しており、イエス・キリストによる救いの福音が明確に語られる教会に導かれることが、大切です。

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