儚さの向こう側

小さい頃の記憶に、よくしゃぼん玉で遊んだことを思い出します。

大きなしゃぼん玉、遠くに飛ばせるしゃぼん玉を作るために、石鹸水の濃さやストローの大きさなんかをよく工夫したものです。

今でもしゃぼん玉を飛ばしたい衝動に駆られることがありますが、そんな時は野口雨情の「しゃぼん玉」を口ずさんだりしています。

あの「しゃぼん玉」の歌は悲しい謂れがありますね。

一番の歌詞は
「しゃぼん玉飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで こわれて消えた」とあります。

 

実はこの一番の歌詞は、生後7日目で亡くなった雨情の長女みどりちゃんの死が背景にあると言われています。

雨情はある日、しゃぼん玉遊びをしている子どもたちを見て、生きていたらこの子たちと同じくらいの年齢だろうと、

みどりちゃんを思い出し、この歌詞を書いたそうです。

 

「屋根まで飛んだしゃぼん玉」「飛ばずに消えたしゃぼん玉」

しゃぼん玉のようにはかない人生。簡単に壊れて消えてしまう人のいのち。

だから「かぜ、かぜ ふくな」と願うのでしょう。

それでもこの歌は悲しみだけでなく、その死の向こうに永遠のいのちの希望があるのだ、

もう一度天国で会えるんだという、悲しみの向こう側に希望を見出すような、

クリスチャンである雨情の、死は決して終わりではないという強い心を、語りかけているようにも感じます。

コリント人への手紙第一 15:3〜54(第三版)
「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと…

 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされているこのみことばが私たちに実現します。」

私たちのために主は十字架に死に、そしてよみがえられました。

それは、私たちのすべての罪を赦し、イエス・キリストを救い主と信じ受け入れる者に永遠のいのちの希望、

よみがえりの希望を与えてくださるためなのです。

決して私たちは死んで終わりじゃないんだと約束されています。

どうぞお近くのグレース宣教会においでください。

あなたも、「もうダメだ」と思う「終わり」のその向こうにある「希望」を見出すことができるはずです。

 

グレース宣教会牧師 
HungerZero日本国際飢餓対策機構巡回牧師 
田村治郎

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