「私は あなたの力と栄光を見るためにこうして聖所で あなたを仰ぎ見ています。」(詩篇 63篇2節)
礼拝についていろいろなことを教えられてきました。
罪深い私たちがイエス様の十字架の犠牲によって赦され聖い神様と交われるようになったゆえ、感謝をもって神様の御前に出ること。
また神様との素晴らしい関係を持てたけれども聖なる恐れをもって神様の前にひれ伏すこと。
そして神様に喜ばれる聖なるささげ物として自分のからだや時間、財を献げること。
さらには、聖書のみことばを通して神様のみこころを知り、示された導きに応答する礼拝の大切さを知りました。
①礼拝は信仰が大切
私たちがどんなに細かく具体的な礼拝を計画し実行したとしても、神様が喜ばれない礼拝になってしまう可能性があります。
それは、形式的な礼拝を追い求め、心の中の状態が伴っていないときです。
同じ礼拝に出席し同じメッセージを聞いても、ある人は恵みを受けて成長し、他の人は何の成長もない場合があります。
その理由は心が神様に向いていないからです。聖書に「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル記第一16章7節)と書かれています。
また、ヘブル人への手紙11章6節には「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、
神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」と教えられている通りです。
良い人間関係は、互いに相手のことを知り、受け入れ合い、信頼し合うことから生まれます。
それは、親子でも兄弟でも友人関係や職場関係でも同じです。
同様に私たちを愛してくださっている神様と私たちが良い関係を持つためには、
私たちが神様をどれだけ信頼しているか、つまり信仰が重要なのです。
②礼拝の中心は神様ご自身
私たちの礼拝は、何かをするための礼拝ではなく、何かを得るための礼拝でもありません。
礼拝の中心は、まぎれもなく三位一体の神様があがめられることです。
礼拝は神様の栄光が現れる場です。礼拝の最後に私たちは頌栄を賛美します。
その意味は三位一体の神様にすべての栄光を帰するということです。
冒頭の詩篇の著者は言っています。「私はあなたの力と栄光を見るためにこうして聖所であなたを仰ぎ見ています。」
このコロナ禍にあっても信仰をもって主を礼拝し、すべての栄光を神様に帰す者と成らせていただきましょう。
真の礼拝者として。
(文責:今倉 守)