「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。
あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。
それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ人への手紙12章1節)
礼拝はささげるものです。守るものでもなく、出席することだけのものでもありません。
キリスト様を信じていない人にとっては、礼拝に出席はできても、礼拝をささげることはできないのです。
なぜなら、イエス・キリスト様が、十字架で生きた供え物として、ご自身をささげてくださったことにより、
初めて罪人が神の前に、ひれ伏して、礼拝をささげることができるからです。
ですから、パウロも、罪赦されて礼拝者として召されている私たちに、主ご自身がご自分をささげられたように、
自分のからだを生きたささげ物としてささげなさいと勧めています。
このように礼拝をささげるということは、「私のすべては、主のものである」という告白の場でもあります。
そのすべてとは次の3つです。
①からだ
信仰は霊的なこと、からだは肉的なことと分けることはできません。私たちの信仰は全人的な信仰なのです。
私たちもⅠテサロニケ5:13より、礼拝の献身者の祈りの中で、「平和の神様、私たちを全く聖なるものとしてください。
主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、私たちの霊とたましいとからだを完全にお守りください」と、
告白しているのです。信仰とともに、からだを神様にささげるのです。
②時間
からだをささげることは、時間をささげることを意味します。
それぞれに与えられている時間を、自分のために使うのではなく、聖別して神様にささげるのです。
キリスト者は、主イエス様が、私たちの罪のために十字架にかかって死んで、
三日目によみがえられた週の始めの日、その日曜日に時間をささげて礼拝をしているのです。
③財産
礼拝は神のメッセージに対して応答することですが、「私のすべてはあなたのものです」という告白として、献金をします。
天地を創造されたお方、無から有を生み出されたお方、すべてのものはこのお方のものです。心から喜びをもって、ささげましょう。
あなたは、ささげる礼拝をしていますか。私たちは献身者の群れです。
心から喜びをもって、自分自身をささげる真の礼拝者とならせていただきましょう。
(文責:吉田正晴)