『すると、四つの生き物は、「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。』
(ヨハネの黙示録 5章14節)
礼拝は、神の前に出ることです。神の前に出て礼拝をささげるとき、私たちはどのような姿勢で礼拝すべきなのでしょうか。
つまり、私たちと神との関係性が問われるのです。私たちのために、人となられた神、キリスト様と私たちはどのような関係性にあるでしょう。
本来、人は罪のゆえに、神の前に出ることができない存在でしたが、先週学びましたように、
キリスト様の流された十字架の血により、すべての罪が赦され、大胆に聖所である神の臨在の前に出られる者となりました。
(1)神と私たちは、親しく交わることのできる関係にある
それは、私たちとキリストとの関係は、主人としもべではなく、「友」(ヨハネ15:15)であり、
流された十字架の血により、神の子となった私たちは神の家族の一員で、キリストを兄とする「兄弟姉妹」(マタイ12:50)であり、
さらに、私たちはやがて再臨される主の「花嫁」(黙示21:9)だとも教えています。これは素晴らしい恵みです。
本来ならば、御前に出られない罪人が、恵みによって、このような親しい関係に入れられたのです。
その恵みによって、親しくされた者たちの礼拝はどうあるべきなのでしょうか。
私たちが親しくされた関係に入れられたとしても、軽々には、このお方の前に出られないのではないでしょうか。
(2)形式にこだわらない、自由な礼拝の中にも聖なる恐れを持つ
12弟子のひとり、トマスは、他の弟子たちから「復活の主を見た」という証言に全く耳を貸さず、
自分でその傷跡に指を入れてみなければ、決して信じないと豪語していましたが、そんな彼を主はあわれみ、
一方的な恵みによって、主ご自身が彼のためにもう一度現われてくださったのです。
トマスは自分の指を主の傷跡にあててみなさいと言われた時、彼は、指を入れて確かめてはいないと思うのです。
その瞬間、頭を垂れ、涙とともにひれ伏して、「私の神、私の主」と礼拝したのではないでしょうか。
恵みによって救われた私たちも、主の前に出て、ひれ伏してともに礼拝をささげましょう。
そして、召されて顔と顔を合わせて天の御国で礼拝をささげる時も、さらにひれ伏してささげることでしょう。
『すると、四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した』(黙示5:14)
(文責:吉田正晴)