「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。」(へブル人への手紙 10章19節)
礼拝は、聖なる神の御前に出て、神を崇めることです。そこには形式ではなく、生きた交わりがあります。
それは、神からのメッセージに私たちが応答するからです。そして、告白するのです。
「わがたましいよ 主をほめたたえよ。
わが神 主よ あなたはまことに大いなる方。
あなたは 威厳と威光を身にまとっておられます」(詩篇104:1)
このように、神からのメッセージとそれに対する応答、つまり、一方通行ではなく相互の交わりが礼拝なのです。
神との交わりは、まず、神の前に出ることなしに実現できません。聖所で礼拝するには、神の前に出ることが必要です。
しかし、神の前に出ることを阻むものがあります。それは私たちの中に潜む罪です。
この神に敵対する思い、神ではなく自分を満足させたいという自己中心の罪が、神の前に出ることを妨げるのです。
そしてそれは、神の前ではなく、自分たちの思いや満足の中で、礼拝という形式をとりながら、単なる集会に陥ってしまう恐れがあります。
では神の前に出て、聖所で礼拝をささげるにはどうしたらいいのでしょうか。
この聖所には一点のしみもないきよさが求められるのです。
本来、私たちは誰も神の前に出ることが許されない罪人です。
完全にきよくしていただかなければ、誰も聖所で神を礼拝できないのです。
しかし、その道が備えられました。それがキリスト様の流された十字架の血です。
旧約時代にささげていた動物の犠牲は、もう必要ありません。
完全なる永遠の神がこの歴史上にただ一度、罪の贖いのための血を流してくださったからです。
その流された尊い血潮により、すべての罪は赦されるのです。
そして、この完全なる赦しは、信仰による完全なきよめを意味します。
ゆえに、上記のみ言葉のように、私たちは、大胆に聖所に入ることができるのです。
そして、その聖所できよい神との交わりが実現するのです。
あなたは、神の前に出て、礼拝をささげていますか。
礼拝はメッセージを聞き、賛美や祈り、献金で応答することですが、まず、「神の前に」出ることが大切です。
対面礼拝の時は、早めに来て祈り、静まる時間が必要でしょう。
また、リモートの時もメッセージを聞く前に、静まる時間をぜひ持ってください。
神の前に出る礼拝を共にささげましょう。
(文責:吉田正晴)