「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。
神のひとり子の名を信じなかったからである。」(ヨハネの福音書 3章18節)
今まで、「罪に対する神の審判」とその具体的な「罪と悔い改め」について学びました。
今週は、その罪に対する神様の「さばきからの救い」について学びましょう。
皆さんは、誰かの過ちに対してそれを赦したいと思いますか。それとも批判し、さばこうとしますか。
もし、それが自分の子どもならどうでしょうか。
普通の親なら、自分の子どもの為のしつけは別として、
その過ちに対して「さばく」ことを考えるより、「赦す」ことを考えると思います。
もちろん、子どもが犯した過ちに対して何らかの代価が求められるならそれを自ら払うでしょう。
私は子どもの時、相当親の手を焼く「やんちゃ坊主」でした。
友だちとしょっちゅう喧嘩しては怪我を負わせたり、町中で野球をして人の家の窓ガラスを何度も割ったりして
母は何度も弁償しました。その度に母に叱られたりするものの、母は私を赦し、ちゃんと代わりに弁償してくれました。
歳を重ねて行く中で母と父の大きな愛をやっと知るようになりました。
私たちは、自分が犯す罪を知らず(イザヤ53章)、それがもたらす恐ろしい結果はなお分かってない存在です(ローマ6:23)。
にもかかわらず、私たちの造り主である神は、私たちが罪のゆえにさばかれ、
滅ぼされることを願わず(エレミヤ29:11)、なおも多くの自然の恵みを与えつつ見逃して下さったり(使徒14:16,17)、
一人でも悔い改めて救われることを望んで限りなく忍耐してくださいました(IIペテロ3:9)。
最後には、自ら神の御子、キリスト・イエス様を与えて、私たちのさばきの身代わりにして下さいました(ヨハネ3:16)。
今まで見たように、罪からの報酬は、死であり(ローマ6:23)、永遠のさばきです(へブル9:27)。
実は、私たちがまだ罪人であった時、私たちはもう既にさばかれている存在でした(エペソ2:1-3)。
肉体の死の後、さばきを受けることが既に定まっていた存在でした。それを上記のみことばも証ししているのです。
「信じない者はすでにさばかれている。」
即ち、私たちは神もキリストも知らずに人生を歩み人生にはさばきが定められていることも知らず、
今の世が全てかのように生きていた者でした。
そのような私たちの為に、私たちを造ってくださった父なる神は、
御子キリスト・イエス様の死を通して私たちの罪の身代わりとし、
恐るべきさばきからの救いの道を与えて下さったのです。
あなたと私が救われる道は、今自分の罪を神の前で悔い改め、道であり、真理であり、
いのちであるイエス・キリストを自分の救い主、主として信じ、受け入れることです。
今が救いの時、決心する時です!今、信じる決断をしましょう!
(文責:金 大弘)